| 項 目 | 内 容 | 項 目 | 内 容 |
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①発生日 |
1923年9月1日 (大正12年) |
②発生時間 |
午前 11:58 |
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③地震の 規模 |
M7.9 |
④最大震度 |
7 |
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⑤震源域 |
小田原市の北10km~鎌倉~三浦半島先端~館山に至る線上/深さ25km | ||
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⑥全壊家屋 |
109,713棟 |
⑦死者(合計) |
105,385名 |
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⑧焼失家屋 |
212,353棟 |
⑨死者(火災) |
91,781名 (内数) |
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⑩半壊家屋 |
102,773棟 |
⑪死者(住宅倒壊) |
11,086名 (内数) |
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⑫流出・ 埋没他 |
1,301棟 |
⑬死者(流出・埋没他) |
2,518名 (内数) |
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⑭気象条件 |
勢力を落とした台風が能登半島付近にあり関東地方は地震発生の12時頃は台風に吹き込む南南西の風12.3m、その後台風が東に進むと 風向きは西風、北風と変わって夜には最大風速22mまで強まった。 | ||
●【写真11-5】は上野山(現在の上野公園)から見た火災の煙で巨大な雲のようになっておりすでに「点」の火災では無く「面」として延焼が拡大
●特に関東大震災のように台風に吹き込む風の影響で風向きが変化すると延焼方向が刻々と変わるため延焼火災をかわしながら避難するのはますます難しい状況になる。
●特に火に追われて橋のたもとや学校の校庭、寺院の敷地など比較的狭い所に避難した人たちが身動きできず結局焼死したケースや東京の陸軍被服廠(ひふくしょう)の
跡地(1辺が200~300m)の比較的広い場所には周りが延焼してきたのを知り大八車等に家財道具積んで数万人が殺到したが周りを火災で囲まれ火災旋風も
発生したことから大量の火の粉が家財道具等の可燃物に燃え移り、ごく短時間に40,000人近くの方が焼死した。
●当時横浜市の関内にあった横浜公園も1辺が200~300mで陸軍被服廠の跡地とほぼ同じ面積の避難場所になりやはり数万が殺到しこちらでも火災旋風が
発生し焼屑が雨のように降ってきて園内の建物が焼け落ちたが、陸軍被服廠の跡地とは対照的にほとんどの死者が出なかった。
●現代の東京で同様な地震が起きた際に車で避難しようと公道に乗り出すと一斉に大渋滞が起きてしまうことは東関東大震災の際、帰宅者等で都内の道路が
大渋滞を起こしたことで証明されている。このような状態下で道路に面した建物等の火災が道路の車に延焼することが考えられるが、車が延焼すれば燃料に引火して
爆発を起こし猛烈な炎は近隣の車に更に延焼・爆発の繰返しが起き避難道路はたちまち火の海になる可能性がある。
●このようなことから「旧陸軍被服廠の跡地地悲劇」の教訓を忘れ無いためにも避難の際は車は使用せず、徒歩で避難場所まで素早く逃げることが重要で、
いざと言う時のために普段「自助」・「共助」の活動を通じて延焼火災からの避難方法を家族や近隣と話し合い避難行動の考え方を共有化しておく必要がある。
●現在の東京や大阪他大都市では場所にもよるが極端に過密状態の場所や耐震性の無い家屋が多数存在することも事実である。
●【図11-12】は関東大震災での死亡原因を示したものであるが火災による死亡者が全体の87%を占めており地震後の延焼火災がいかに危険なのかを示している。Copyright (C)2019 Port80, All rights reserved.