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関東大震災(関東地震)

<基本情報> 

■関東大震災は我が国で発生した過去最大の被害を出した地震で東京や横浜を中心に家屋の倒壊や延焼火災の他津波や土砂災害など甚大な被害がでた。 本ホームページ(防災の広場)では関東大震災の記録をコンパクトに集約したもので自助や共助の活動に利用されることを期待する。
■地震当日は台風くずれの低気圧が通過中で強風が吹いていたため延焼火災が大規模に拡大し21万2千棟あまりが焼失し 延焼火災による死者は9万2千人で、この地震全体の死者10万5千人の約88%にもおよんだ。
■この地震の教訓である大都市における住宅密集地の延焼火災の恐ろしさをけして忘れてはいけない。

【表11-1】関東大震災基本情報
項 目 内  容 項 目 内  容
①発生日
1923年9月1日(大正12年) ②発生時間
午前 11:58
③地震の規模
M7.9
④最大震度
   7 
⑤震源域
小田原市の北10km~鎌倉~三浦半島先端~館山に至る線上/深さ25km
⑥全壊家屋
109,713棟
⑦死者(合計)
105,385名
⑧焼失家屋
212,353棟 ⑨死者(火災)
 91,781名(内数)
⑩半壊家屋
102,773棟
⑪死者(住宅倒壊)
 11,086名(内数)
⑫流出・埋没他
  1,301棟
⑬死者(流出・埋没他)
  2,518名(内数)
⑭気象条件
勢力を落とした台風が能登半島付近にあり関東地方は地震発生の12時頃は台風に吹き込む南南西の風12.3m、その後台風が東に進むと 風向きは西風、北風と変わって夜には最大風速22mまで強まった。


<地震の概要とメカニズム>                  トップに戻る

  【図11-2】関東大震災震源分布図
Natural ■大正12年9月1日11時58分に小田原の北10km深さ25kmを震源とするマグニチュード7.9、最大震度7の地震が発生した。 この地震の震源付近はフィリピン海プレート、北米プレート、太平洋プレートがひしめき合っているがこれらに挟まれるように相模トラフがあるが、この地震は 相模トラフの海溝に沿ったプレート境界で起きたものである。
■具体的地震のメカニズムは【図11-2】の楕円で示す横130km、幅70kmの領域の下の部分のプレート境界面が動いたことにより大地震が発生したもので 実際は全体がスルスルと動いた訳ではなく、最初震源となる小田原の北10km付近で第1波(図-小丸左)の大きな動きが始まり、次第に東に移動しで、 次に三浦半島先端付近で第2波(図-小丸右)の大きなすべりが発生したと思われる。第1波と第2波の大きなすべりは10秒程度の間隔で起きて おり双子の地震が起きたと考えると分かりやすい。この時のすべり移動速度(破壊伝播速度)は約3km/秒でジェット機より早い速度である。
■この結果小田原から鎌倉、三浦半島先端、館山に連なる線上に震度7の領域が発生し神奈川、東京を中心とした関東平野一帯に甚大な被害をもたらした。 このように超巨大地震は広範囲の断層面全体が連動して動くと言う特徴があり、2011年3月の東日本大震災では三陸沖の200km×400kmの広大な範囲が連鎖してほぼ同時に動いたとされている。


<建物倒壊による被害>                    トップに戻る

■家屋の全壊・半壊棟数は当時の東京市が23,314棟、横浜市が28,079棟で横浜市の方が多い。焼失棟数は東京市が166,191棟、横浜市が25,324棟で 東京市が逆に圧倒的に多い。これは横浜市の方が震源域に近く揺れが大きかったことや、地震後の延焼火災では住宅密集度が多い東京市の方が延焼火災に 弱い街づくりであったと言える。
■建物の倒壊について当時の法的建築基準をみてみると、当時の「市街化建築物法」では建物の重量の10%を水平力(地震力)とする決まりがあったが 大都市に建てるビルを対象にした規定で、木造建築物に対しては「適当に筋交い又は方杖を設けるべし」という規定が取り入れられていた。 しかしこれはあくまで精神的規定であり、また住宅については対象外であった。このようなことから当時の住宅の耐震力は総じて低かったと言え、 このことが建物の倒壊により多くし、その結果建物倒壊による火災も多く発生し地震後の延焼火災で多くの死者を出すことに繋がったと思われる。
  【写真11-3】中段ヨリ崩壊セル浅草十二階(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
Natural ■【写真11-3】は明治時代に建設された浅草にあった凌雲閣(りょううんかく)で震災当時日本で一番高い12階建ての建物で、最上部の展望室からは 東京は勿論関八州の山まで一望できたと言われていた。現在の高層ビルとも言えるこの12階建てのビルの基本設計をしたのは英国人ウイリアム・k・バートンで東京市の上水・下水の取調主任の 仕事をしており建築設計の専門家では無かったようである。
■凌雲閣は明治23年(1890年)に竣工したもので店舗や展望台などが主な用途で軒高47.9m、最高高さ52.4m、地上12階(1~10階までは煉瓦造で11~12階は 木造)、建築面積112.4m2(34坪)、煉瓦布基礎(松杭上に76cmのコンクリートを打設)、支持基盤は沖積層であるが関東大震災では震度6の揺れで8階部分より上部が崩壊した。
■またこのビルは現在の東芝の前身である白熱舎(後の東京電気)の社長であった藤岡市助が東京電燈株式会社の技師時代に設計した日本で初めての電動エレベータが設置されたことでも有名である。



<火災による被害>                      トップに戻る

■地震発生当日の気象状況 
●基本情報の気象条件にも記載したが関東大震災地震当日の前日に台風が九州地方に上陸し、台風はその後瀬戸内海を通過して日本海沿岸を北上していたため 地震当日には勢力は落ちたものの能登半島付近にあり、関東地方では早朝よりこの台風に吹き込む南西の風が吹き、地震発生時刻の12:00頃は南南西12m/sの風が吹いていた。
●地震後も台風が北上するにつれて風は南南西から西風そして北風と風向きが変化し夜間には台風の吹き返しの風で最大風速22m/sまでの強風になった。
●この刻々と風向きが変わる強風と燃えやすい構造の家屋が密集していたことが広域の延焼火災に繋がりまた避難をより難しくした要因でもあった。

■同時多発の地震火災の原因 
●地震の発生時間が正午に近かったこともあり多くの家庭で昼食を作るため火を使用していたことと、 耐震性が弱い家屋の倒壊により使用していたかまど等の直火が燃え移り多数の地震火災が同時多発的に発生した。
●当時の加熱調理器具と言えば「かまど」や「七輪」が中心で現代のようにガスや電気を利用した調理器具など一般家庭にはあまり普及しておらず直火での調理が中心であった。
  【写真11-4】古くから使われていたかまど(所蔵・提供:栗東歴史民俗博物館)
Natural ●【写真11-4】は古くから使用されてきた「かまど」で呼び名は地域より違いがあるが、一般的に「へっつい」とか京都では「おくどさん」などとも呼ばれた。
●「かまど」も時代共に改良が加えられて大正時代には耐火れんが製で表面にタイルを張ったものもに変わりつつあったようだが、燃料は薪が主流で どうしても裸火が露出するため、建物が倒壊した場合は「かまど」の上に木材が折り重なり結果として火災が発生した。

■広域延焼火災の状況と被害 
●火災は内閣府発行の「広報ぼうさい(NO.40)」によると当時の東京市だけでも地震後134ヵ所から出火して、初期消火で鎮火したのが57ヶ所で残した 77ヶ所が延焼火災となり、延焼は市域面積79.4km2の43.6%の34.7km2に及び21万余棟が焼失し、火災による死者は91,781名と言う甚大な被害を出した。
●当時の警視庁消防部は6消防署に824名の常備消防員を置きポンプ自動車38台を有し、ポンプ自動車は各消防署や出張所に概ね1台を配置し 当時の東京市の消防体制は国内有数の消防組織を持っていたが想定をはるかに超えた同時多発の火災と、その後の延焼火災は当時の消防能力で対抗できる レベルではなかった。
●このように同時多発の火災が強風に煽られればたちまち延焼が広範囲に伸展するが地震発生時刻の12:00頃は南南西12m/sの風が吹いており更に 夕方には北風に変わり最大風速22m/sまでの強風になっていたことと、現在のように建築基準法や消防法などで厳しく建物の耐火性を定めていた訳でも ないため燃えやすい木造家屋等に次々延焼していったと思われる。
 【写真11-5】上野山上ヨリ見タル猛火(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
Natural ●【写真11-5】は上野山(現在の上野公園)から見た火災の煙で巨大な雲のようになっておりすでに「点」の火災では無く「面」として延焼が拡大
していることが分かる。
延焼速度は関東大震災時の風速15m/sレベルで200~300m/H、阪神・淡路大震災時の風速3m/Hで20~40m/H と言われており更に火災は出火点から風下方向に扇形に加速度的に広がるため地震直後の同時多発の火災が多数点在していれば短時間で延焼火災に取り囲まれ気が付いたときは 逃げ場を失ってしまうことになる。
 【写真11-6】船にて避難する人々(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
Natural ●特に関東大震災のように台風に吹き込む風の影響で風向きが変化すると延焼方向が刻々と変わるため延焼火災をかわしながら避難するのはますます難しい状況になる。
●【写真11-6】は場所等不明であるが川か運河に沿って延焼火災が起きており、そこからの熱風、火の粉、輻射熱を避けるため 船で避難する人々の様子が分かる。当時延焼火災の中を避難した人の証言に「火の壁が迫ってくる」と言う表現があるがこの写真を見れば 延焼火災の恐ろしさを再認識することができる。
  【写真11-7】火に追われたる避難民上野駅前に押寄す(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
Natural ●特に火に追われて橋のたもとや学校の校庭、寺院の敷地など比較的狭い所に避難した人たちが身動きできず結局焼死したケースや東京の陸軍被服廠(ひふくしょう)の 跡地(1辺が200~300m)の比較的広い場所には周りが延焼してきたのを知り大八車等に家財道具積んで数万人が殺到したが周りを火災で囲まれ火災旋風も 発生したことから大量の火の粉が家財道具等の可燃物に燃え移り、ごく短時間に40,000人近くの方が焼死した。
  【写真11-8】神田小川町通の惨状(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
Natural ●当時横浜市の関内にあった横浜公園も1辺が200~300mで陸軍被服廠の跡地とほぼ同じ面積の避難場所になりやはり数万が殺到しこちらでも火災旋風が 発生し焼屑が雨のように降ってきて園内の建物が焼け落ちたが、陸軍被服廠の跡地とは対照的にほとんどの死者が出なかった。
この差は横浜公園には樹木が多く火の粉をさえぎったことや、避難した人は地震後すぐに火災に見舞われ家財を出す暇なく着の身着のままで この公園に避難してきたこと、園内の水道管がたまたまは破損して水溜りがあったことが幸いしたと
                        言われている。横浜公園の幸運な教訓は延焼火災
■関東大震災の広域延焼火災からの教訓      からの避難場所に反映すべきで事項でもある。
 【写真11-9】焦土と化した銀座通(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
Natural ●現代の東京で同様な地震が起きた際に車で避難しようと公道に乗り出すと一斉に大渋滞が起きてしまうことは東関東大震災の際、帰宅者等で都内の道路が 大渋滞を起こしたことで証明されている。このような状態下で道路に面した建物等の火災が道路の車に延焼することが考えられるが、車が延焼すれば燃料に引火して 爆発を起こし猛烈な炎は近隣の車に更に延焼・爆発の繰返しが起き避難道路はたちまち火の海になる可能性がある。
●こうなれば延焼防止線や緊急車両用に利用できる幹線道路が逆に延焼ルートになり延焼速度を
                        上げて避難をより困難なものにしてしまう最悪
                        な状況になることも予想される。
 【写真11-10】上野山上から見た下谷浅草方面(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
Natural ●このようなことから「旧陸軍被服廠の跡地地悲劇」の教訓を忘れ無いためにも避難の際は車は使用せず、徒歩で避難場所まで素早く逃げることが重要で、 いざと言う時のために普段「自助」・「共助」の活動を通じて延焼火災からの避難方法を家族や近隣と話し合い避難行動の考え方を共有化しておく必要がある。
●また当時の東京市では江戸時代からの街並みが至る所に残ったままで人口集中がおこり、超過密状態の燃えやすい木造家屋が密集していたことが延焼火災を 更に拡大した原因でもある。   【写真11-11】東京大震大火災明細地図(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
Natural現在の東京や大阪他大都市では場所にもよるが極端に過密状態の場所や耐震性の無い家屋が多数存在することも事実である。
●このようなことから現代の大都市でも関東大震災並みの地震が発生し強風の気象条件下であれば広域の延焼火災が発生する可能性があることを忘れてはいけない。
この地震は近代化した都市を初めて襲った唯一の巨大地震で、この事実は今後の防災上で建物の耐震化・耐火性能向上、延焼防止を考慮した都市計画、 避難場所の選定、住民の避難方法などに
                        防災上学ぶべき点が極めて多いといえる。
 【図11-12】関東大震災の死亡原因
Natural ●【図11-12】は関東大震災での死亡原因を示したものであるが火災による死亡者が全体の87%を占めており地震後の延焼火災がいかに危険なのかを示している。
●東京都では地域での危険度を5段階評価してどの地域が危険なのかを 「地域危険度評価」 を提供している。リンク先の「地域危険度マップ」で都内23区をクリックすると詳細な指定された区の危険度マップが表示されるので まずは自分が住んでいる場所や通勤・通学している所の危険度を確認されると良い。
●国の中央防災会議の「首都直下地震の被害想定と対策について(最終報告)」によれば今後発生が予想される首都直下地震での想定出火件数は最大2,000件 (内東京都内では1,200件)としており消火用水の断水や道路の損壊、広域停電等の障害も考えれば現状の消防能力をはるかに超える事態となり幹線道路等の 焼け止まり線でどの程度延焼を食い止めることができるかがポイントとはなるが延焼棟数は38,000棟~412,000棟と予想している。
●冬の乾燥した夕食時間帯で10m/s程度の強風が吹いている日に関東大震災並みの地震が来て消火用水の断水、広域停電、道路の損壊による交通の 麻痺などの最悪シナリオとなれば、関東大震災を超える巨大な延焼火災が起きることも覚悟しておかなければならない。
●本ホームページでは延焼火災も含めて巨大地震発生時の避難方法をマニュアル化 (巨大地震避難マニュアル) したので、このマニュアルを参考にして最悪シナリオでも避難場所まで 自助努力で避難する具体的避難計画の作成と自主避難訓練の実施を推奨する。


<土砂災害による被害>                    トップに戻る

■根府川駅地すべり土砂災害
●この地震よる強い揺れは箱根、丹沢付近で斜面の崩壊による土砂災害を誘発し、中でも小田原市根府川では根府川駅に到着しかけた熱海線東京発真鶴行き 下り普通列車が海岸線の斜面の地すべりにより根府川駅の駅舎、ホーム、列車もろとも海側に崩れ最後尾の客車2両を残して海中に没してしまう大惨事が起きた。
 【図11-13】現在のJR根府川駅(筆者撮影)
Natural ●この土砂災害に遭遇した乗員・乗客と根府川駅いた乗客・駅職員のうち112人が死亡し13人が負傷した。 一方真鶴発東京行き上り116列車は真鶴を 定刻より1分遅れで根府川駅の真鶴方面側にある白糸川鉄橋を超えたすぐのトンネルをまさに出ようとしているところで地震に遭遇し先頭の機関車が崩れた土で 埋もれトンネルを出たところで停車した。しかし幸いにも客車部分はトンネル内に残ったため生き残った乗員により乗客をトンネルの真鶴側に避難誘導した ため乗客は若干名の怪我人を出したものの死者はいなかった。 列車が定刻で運行していればトンネルを出て根府川駅付近に到達しており、下り列車と同様海中に 転覆して更なる大惨事を招いた可能性もあった。
 【図11-14】根府川駅から相模湾を望む(筆者撮影)
Natural ●この土砂災害による列車転落事故では列車に乗り合わせた乗客の他や乗員や駅職員など鉄道関係の職員が多く殉職しており昭和48年に 根府川駅構内の改札口を入ったすぐ近くに慰霊碑が建立されている。この慰霊碑には「関東大震災殉難碑」と刻まれており今も献花が絶えない。
●最近大都市では住宅地を確保するため急な斜面を造成して建てた住宅を良く見かけるが見晴らしもよく一見よい様に見えるが 巨大地震が来ても十分に耐え得る擁壁(ようへき)や建物の基礎構造なのか購入前によく確認する必要がある。
 【図11-15】根府川駅構内にある殉難碑(筆者撮影)
Natural ●斜面を造成して建てる住宅は地震でも崩れない擁壁と住宅を支える基礎がしっかりできているかが重要で、2006年に阪神・淡路大震災や新潟中越地震で ひな壇に造成された住宅地で比較的ゆるい傾斜でも地すべりが起きたことから「宅地造成等規制法」が改正され新たに「耐震基準」が取り入れられた。
●この中で宅地を造成することで災害が生ずる恐れが大きい土地の場合は「宅地造成工事規制区域」や「造成宅地防災区域」などの指定されるようになったので 住宅購入に当たってはこれらの区域に入っているか、入っている場合は遵法に則り擁壁や建物の基礎が設計・施工されているかなどを良く確認する必要がある。
●根府川駅も急斜面にあった建築物であり地震による地すべりで駅舎・列車がまるごと海に転落してしまったことから【図11-15】の殉難碑は傾斜面の建築物への警鐘を ならしているようにも思える。
●東京、神奈川、大阪などでは「宅地造成等規制法」が改正される前に造成され山の斜面にあるひな壇式に造成地の住宅については擁壁や建物基礎などがどの程度土砂災害の危険性があるのか公的機関等に相談して調査する必要がある。
●筆者は発電所や変電所、一般建築物の建設工事を47年間経験してきたが、防災の見地から言えば日本のような地震国に住む以上、住宅は震度7を超えるような巨大地震でも 壊れない耐震性がある「家族をまもれるシェルター的住宅」にすべきで、けして眺望や概観などのデザイン優先で選択すべきでないと確信している。
■白糸川地すべり土石流災害
  【図11-16】白糸川鉄橋(筆者撮影)
Natural ●箱根外輪山の東側斜面の根府川や米神では大規模な土砂災害が多数発生した。
●中でも根府川駅の近傍を流れる白糸川では上流の大洞と呼ばれる地区で大規模な地すべり(深層崩壊との文献もある)が発生し推定崩壊土量は108万m3で、 その内82万m3が土石流となって長さ3,500m、標高差500mの白糸川を12m/s(時速42km/h)で流れ下り、約5分後に根府川集落を一瞬で襲ったと記録されている。 ●この土石流により根府川集落では159戸のうち78戸が埋没し289名が死亡した。

■神奈川県での土砂災害
土砂災害の被害は神奈川県と千葉県に集中しており131箇所、死者1,077人、被害戸数556戸、河道閉塞13箇所であったが、ほとんどが神奈川県の被害である。 神奈川県の丹沢山地の大山(標高1,252m)では地震で山腹に多数の崩壊が発生し大量の土砂が上流部の渓流に堆積し、河道閉塞(土砂で川を堰き止める天然ダム)が生じた。
●河道閉塞がおきると多少の降水でも天然ダムが崩壊し土石流となって一気に流れ出し下流に大きな土石流被害を出す。実際、震災直後の9/12~9/15の 豪雨時に下流の伊勢原市大山の集落で大規模な土石流が発生し人家のほとんどの140戸を押し流したことが記録されている。この際は地元の警察官の適切な指示で 地域住民は安全な場所に避難したため、死者は1名で人的被害を最小限に出来たことは幸いであった。
●本サイトが目指すのはまさに、この事例のように災害を事前に予測し、沈着冷静な早めな避難を行い地域住民を災害から守る自助・共助・公助が連携する活動である。


<津波による被害>                    トップに戻る

■津波は震源が相模湾であったこともあり地震発生後早いところでは5分程度で5m近い津波が来襲し相模湾に面した地域に被害をもたらした。 熱海、伊藤、鎌倉、下田、館山、大島では5m近い津波が押し寄せたが東京湾内は大きな津波は無かったようである。
伊豆半島の下田や宇佐美では元禄地震(1703年)、安政東海地震(1854年)での津波被害の教訓が生かされ地震発生直後に避難行動がなされたため家屋は 多数流されたが、人的な被害は最小限に留めたとの記録がある。下田や宇佐美の例ではなぜ5分程度の短時間で住民が避難できたのか今後の津波対策のためにも是非知り たいところではある。


<流言による被害>                      トップに戻る

■「流言」とは事実の確証なしに語られる情報で「根拠が無い風説・うわさ」のことであるが関東大震災では発生後、混乱に乗じて朝鮮人による犯罪、暴動 など事実でない噂が広まり、その噂を信じた民衆、警察、軍が朝鮮人に対して殺傷をする被害が発生した。
■大規模災害で深刻な被害を受けると精神的に動揺し正常な判断能力が失われやすくなり「流言」が連鎖的に広がり拡散する。これらの情報を伝える 人々はそれが事実であるかの確認をすることなく、人から人に伝わるうちにその情報がしだいに歪められ、もとの内容とは異なってしまう場合もある。
■当時はラジオやテレビが無いため人から人への情報に頼るしかなかったが、現代ではラジオ、テレビ、携帯電話、スマホなどの情報源が多数あるので、 広域災害の際はうわさ的情報に頼らず公共報道機関から正しい情報を得ることが「流言」の拡大防止の決めてとなる。


<関東大震災型や首都直下型地震の発生確率は!>        トップに戻る

  【図11-17】房総半島南部沿岸に発達する海岸段丘
Natural ■地震は震源で蓄積していたエネルギーが解放されることにより発生するが、その後徐々にエネルギーが蓄積されやがて限界に達するとまた地震が 繰り返して起きる。陸側プレートと海側プレート間で起きる海溝型地震や活断層でおきる内陸直下型地震のいずれも地震は岩盤面のずれで発生 するが岩盤面には「地震の巣」(アスペリティ)と呼ばれる岩盤面が固着している部分がある。岩盤面がスルスル滑れば大きな地震は起きないが、 固着している部分があるとこの部分にエネルギーが溜まり限界に達するといきなり破壊を起こし岩盤面全体が大きく動いて地震となる。
【図11-18】地震で形成された海岸段丘(房総半島南部)
Natural ■関東地震タイプの地震は過去繰り返し発生しており歴史的には元禄16年(1703年)の元禄地震以外記録されていないが、中央防災会議の関東大震災報告書(第2編) では房総半島南部沿岸に発達する海岸段丘に過去の関東地震の痕跡(写真11-17)が記録されていると報告されている。 これは関東地震が起きるたびに房総半島南部沿岸部が隆起する傾向にあり海岸段丘の隆起状況等を勘案すると、過去7,200年で少なくても15回 発生していることが判明している。このうち数回に1回は震源域が広く隆起が大きな元禄型大地震と考えられる。

■[写真11-18]は房総半島南部に形成された関東地震による海岸段丘の様子で関東大震災で1.5mほど隆起したことがわかる。また[写真11-17]は 過去7,200年間に地震で元禄型や大正型の地震で房総半島が少しずつ隆起してきたことがわかる。(「asl」は'above sea level'のことで海抜を示す)
【図11-19】相模トラフ沿いに繰返し発生する地震の履歴と房総半島南部隆起量
Natural相模トラフ沿いに繰返し発生する地震の履歴から見ると過去7,200年で15回の地震が発生しているがM8.5クラスで直近では1703年に発生した 元禄関東地震(元禄型地震)とM8.2クラスの1923年に発生した関東大震災(大正型地震)の2タイプに分類される。
元禄型地震の発生サイクルは2,000年~3,000年で前回の元禄関東地震からは314年しか経過していないため発生する確率は低いと言える。 一方大正型地震の発生サイクルは200年~400年で前回の関東大震災からは95年経過しておりこのタイプの地震も発生する確率は低いと言える。
■しかし大正型地震は元禄型地震の後70~80年は比較的静穏その後M7前後クラスの地震が複数回発生した後に大正型地震が起きる傾向にある。 ちなみに関東大震災前のM7前後クラス地震としては1782年の天明小田原地震(M7.0)、1855年の安政江戸地震(M6.9)、1853年の嘉永小田原地震、 1894年の明治東京地震(M7.0)、1894年の東京湾地震(M6.7)、1895年の茨城県南部地震(M7.2)などが比較的短期間に連続して発生している。
■このようなことから今後首都直下型のM7前後クラスの地震はいつ起きてもおかしくない状況あることを忘れてはいけない。


<活断層に基く首都直下型地震の可能性は!>  トップに戻る

■地震は海洋プレート境界面の地震だけでなく活断層型の地震もある。近年では1995年1月の阪神・淡路大震災では野島断層が、 2016年4月発生の熊本地震では布田川断層帯の活断層が動いてM7クラスの地震を引き起こしている。
■関東近辺でも立川断層帯、伊勢原断層帯、三浦半島断層群、関東平野北西縁断層帯など活断層が多数存在しているが 活断層型の地震の発生サイクルや詳細のメカニズムは良く分かっていないのが現状で、いつ起きるか分からないのが実態である。
熊本地震を起こした布田川断層帯の30年以内の発生予想確立は「0~0.9%」と小さな値であったが突然震度7の大地震が事実発生しており、関東近辺の活断層も 過去に動いたことは事実でありある日突然動く可能性も十分あるといえる。活断層による地震の発生確率は低くとも「当分の間は安全」と思ってはいけない。


<引用・出典・参考文献>                   トップに戻る

【引用】
以下は平成18年8月発行 総務省中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門委員会
「1923関東大震災報告書(第1編)」から引用した
 ①【図11-2】 :関東大震災震源分布図
 ②【図11-17】:房総半島南部沿岸に発達する海岸段丘
 ③【図11-18】:地震で形成された海岸段丘(房総半島南部)
 ④【図11-19】:相模トラフ沿いに繰返し発生する地震の履歴と房総半島南部隆起量
【出典先】
 ①【写真11-3】、【写真11-5】~【写真11-8】:所蔵・提供:東京都立中央図書館
 ②【写真11-4】: 所蔵・提供:栗東歴史民俗博物館
 ★【写真11-3】~【写真11-8】は著者が東京都立中央図書館及び栗東歴史民俗博物館の利用承諾を
  得て掲載しているため無断で転用することは出来ません。
【参考文献】
 ①総務省中央防災会議「1923関東大震災報告書(第1編)」
 ②内閣府発行「広報ぼうさい NO.39 2007/5」
 ③歴史地震第24号53~64頁「関東大震災(1923)時の震災地応急測図原図と土砂災害」
 ④歴史地震第29号276頁「関東大震災による白糸川の大規模土砂移動」
 ⑤神奈川県発行「神奈川県沿岸における津波浸水想定説明資料」
 ⑥デジタル台風「関東大震災と天気-過去の天気」
 ⑦防災士教本(平成28年7月1日第2版)

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