地震による火災の被害
●地震に伴い大規模な火災が発生することは過去の巨大地震が物語っているが、地震時の火災は地震発生時刻や天候にもよるが1923年(大正12年)9月1日に
起きた関東大震災(関東地震)では発生時間が正午に近かったことも有り昼食の食事を作るため火を使用していたことと、当日台風から変わった低気圧が
通過中で風速10m/s程度の強風が吹いていたこと、当時の東京府では江戸時代からの街並みが至る所に残ったままで人口集中がおこり、超過密状態の
木造家屋が密集していた。
【写真24-1】神田小川町通の惨状(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
●このような悪条件で地震がおこりまず地震動により家屋の倒壊は10万9千余棟以上にも達しており、その死者は1万1千余名に達し震度6弱~7クラスの
地震に対して当時の建物の耐震性が大幅に不足していたことが分かる。
●またこの地震の発生時刻は午前11:58で各所で、昼食に向けて食事造りの最中で「かまど」や「七輪」など直火が多く使用されていたと想定される。
更に家屋の倒壊によりその火は建物に燃え移り火災が同時多発し、更に蜜集する木造住宅に次々延焼し、悪いことに折からの強風に煽られて大火災に
発展したと考えられる。
●【写真24-2】は古くから使用されてきた「かまど」で呼び名は地域より違いがあるが、一般的に「へっつい」とか京都
【写真24-2】古くから使われていたかまど(所蔵・提供:栗東歴史民俗博物館)
では「おくどさん」などとも呼ばれた。「かもど」も時代共に改良が加えられて大正時代には耐火れんが製で表面にタイルを張ったものもに変わりつつあった
ようだが、燃料は薪が主流でどうしても裸火が露出するため、建物が倒壊した場合は「かまど」の上に木材が折り重なり、結果として同時多発の
火災が発生したのではないかと思われる。
●火災は内閣府発行の「広報ぼうさい(NO.40)」によると当時の東京市だけでも地震後134ヵ所から出火して、初期消火で鎮火したのが57ヶ所で残した
77ヶ所が延焼火災となり、延焼は市域面積79.4km2の43.6%の34.7km2に及び21万余棟が焼失し、火災による死者は91,781名と言う甚大な被害を出した。
【写真24-3】焦土と化した銀座通(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
●当時の警視庁消防部は6消防署に824名の常備消防員を置きポンプ自動車38台を有し、ポンプ自動車は各消防署や出張所に概ね1台を配置し
当時の東京市の消防体制は国内有数の消防組織を持っていたが地震に伴う断水や火災の同時多発と言う事態は想定しておらずこの大火災に
対抗できるレベルではなかったようである。
●当日昼過ぎまでは南風、夕方から西風、夜は北風、翌日朝には再び南風と風向きが変化する中、人々は延焼の火に追われて橋のたもとや学校の校庭、
寺院の敷地など比較的狭い所に避難した人たちが身動きできず、結局多くの方が焼死したケースが多かった。
【写真24-4】上野山上から見た下谷浅草方面(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
●特に東京の陸軍被服廠の跡地(1辺が200~300m)と比較的広い場所であったが周りが延焼してきたのを知り数万人が殺到した。事態を悪くしたのは
非難する際に人と一緒に大八車等に乗せた家財道具を持ち込んだため、避難場所がすし詰め状態になったことである。このような状況に強風と旋風が起こり
大量の火の粉が家財道具等の可燃物に燃え移り、ごく短時間に4万人近くの方が亡くなった。
●横浜市の関内にあった横浜公園は1辺が200~300mで陸軍被服廠の跡地とほぼ同じ面積の避難場所になり、やはり数万が殺到しこちらでも火災旋風が
発生し焼屑が雨のように降ってきて園内の建物が焼け落ちたが、陸軍被服廠の跡地とは対照的にほとんどの死者が出なかった。
【写真24-5】火に追われたる避難民上野駅前に押寄す(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
●この差の要因は横浜公園には樹木が多く樹木が火の粉をさえぎったことや、非難した人は地震後すぐに火災に見舞われ家財を出す暇なく着のみ着のままで
この公園に非難してきたこと、園内の水道管がたまたまは破損して水溜りがあったことが幸いしたと言われている。
横浜公園の幸運な教訓は今後の避難場所の設置に反映すべきで事項でもある。
●現代の東京で同様な広域災害が起きた際に車で非難しようと公道に乗り出すと一斉に渋滞が起きてしまうことは東関東大震災の際、帰宅者等で都内の道路が
大渋滞を起こしたことで証明されている。このような状態下で道路に面した建物等の火災が発生した場合はその火が道路の車に延焼することが考えられ、
車が延焼すれば燃料に引火して爆発を起こし猛烈な炎は近隣の車に更に延焼・爆発を誘発し、これが繰り返されると道路はたちまち火の海なる。
【写真24-6】東京大震大火災明細地図(所蔵・提供:東京都立中央図書館)
●こうなれば延焼防止線に利用できる幹線道路が逆に延焼を更に助長する火縄となり幹線道路を通じて逆に建物に延焼し最終的には手が付けられない状況に
なることも予想される。
●「旧陸軍被服廠の跡地地悲劇」の教訓を忘れ無いためにも都市での地震での避難の際は「車は使用せず」、非常持ち出し袋程度の手荷物を持ち
徒歩で延焼防止線の幹線道路等を利用して避難することが重要だ。細かいことに思えるが、いざと言う時に徹底するためには普段「自助」・「共助」の活動を
通じて非難方法を話し合い、非難行動の考え方を共有化することが極めて必要がある。
【図24-7】関東大震災の死亡原因
●この地震は近代化した都市を初めて襲った唯一の巨大地震で、この事実は今後の防災上で建物の耐震化・耐火性能向上、延焼防止を考慮した都市計画、
避難場所の選定、住民の避難方法などに学ぶべき点が極めて多い。
●現在の東京は特に下町の地域にはまだ古い建物もあり耐震化が急がれるが全体的には耐震化もかなり進んで来て言え火災に対してはかなりリスクが
ある地域がある。建物の耐震化・耐火性能向上してきているが繁華街では飲食店が密集しており火を取り扱う個所が増えており地震時に失火する
リスクは増えている可能性がある。
●東京都では地域での危険度を5段階評価してどの地域が危険なのかを
「地域危険度」
を提供している。リンク先の「地域危険度マップ」で都内23区をクリックすると詳細な指定された区の危険度マップが表示されるので
確認されると良い。
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【写真24-8】地震に伴う火災
●火災の被害は冬の早朝であったことも重なり地震直後から各地域で同時多発的に発生した。火災は285箇所から発生し7,483棟が焼損し、
延べ焼損面積は834,663m2に至った。
●地震直後の火災は熱源として利用していた電気機器やガス器具が地震で転倒したり可燃物が覆いかぶさるなどでしての出火したのが原因と思われ
神戸市内で50箇所以上で同時多発的に発生した。
●地震翌日以降では電気の復旧に伴う通電火災(倒れた電気ストーブ等の発熱電気機器に通電が開始されことにより付近の物が
加熱され火災に発展するもの)が増えた。
通電火災を防ぐには非難時分電盤のメインブレーカーを遮断(OFF)する必要があるが、地震直後は気が動転してそこまで気が廻らないこともあり
感振ブレーカーに取替えたり、おもりが落下する力でブレーカのレバーを押し下げる簡易なものの取り付けが望まれる。
●消火活動は地震により消火栓が使用できなくなり水利不足と道路の陥没や建物崩壊により消防隊の活動は困難を極めると共に消防力を遥かに超える
火災により対応できない火災が多数発生した。
●人命救助では救急隊の活動能力を遥かに超える119番通報による救助要請が殺到し実際は対応しきれず、要救助者の77%を救出したのは
近隣住民であった。この震災では近隣住民がお互いに助け合い、負傷者などの救出と応急手当を行い人命を救う「共助」の精神の重要性が見直された。
●近隣住民による救助活動では救出のための資機材が不足し消防署に資機材を貸して欲しいとの声が殺到した。この教訓から地域社会での防災会活動
では救出のための最低限の資機材(バール、のこぎり、ジャッキ、ハンマー他)を普段準備しておくことが望まれる。
●神戸市の消防職員は自らも被災するなか家族を家等に残し職場に急行して任務に着き、消火活動に救命活動に全力を尽くされた記録が「阪神・淡路大震災
消防職員手記」として掲載されている。多勢に無勢のなか仕事とは言え消火や救助活動に全力を尽くした消防職員には頭がさがる思いである。
●大規模災害の際は地域の消防力だけでは対応できない、この災害の教訓から「緊急消防隊」が1995年の創設され、大規模災害時は都道府県域を超えた
広域応援のが可能となった。
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【写真24-9】岩手県山田町の津波火災に伴う市街地被害
●この地震や津波による火災は全国で330件発生したが、その範囲は北海道から神奈川県までの広範囲であった。特に津波被災地では大規模な
津波火災が発生した。【写真14-7】は岩手県山田町の津波火災に伴う市街地被害状況で山田町では2011年3月11日の津波到来直後に
大規模な市街地化火災が発生3月14日に鎮火するまで4日間燃え続き延焼面積は107,600m2にも及んだ。
●津波火災は津波により流失した家屋や瓦礫に出火し次々と延焼する火災であるが、この地震での最初の出火原因については燃え残った
痕跡物が流されたり撤去されて原因究明については消防庁消防研究センターの調査でも特定はできなかった。
しかし調査の中で津波で流されたLPGボンベからガス噴出しそこに引火した可能性大きいと推論している。
●1993年の北海道南西沖地震では大津波に襲われた奥尻島では2件の火災が発生してこれが基点となり延焼が広がり192棟が焼失した。また
1964年のアラスカ地震の際では津波で流された船がなどの漂流物が石油タンクに衝突して発火し、民家に延焼してひとつの町が全焼した例もある。
津波火災は津波の二次災害であるが地震や津波で行政の消防能力が落ちる中、浸水した現場まで行くこともできず消火困難な状況になることが
予想され、今後特に湾岸工業地帯での津波・地震火災を視野に入れた防災対策が必要と思われる。
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●過去の地震の例でも分かるように地震の揺れにより失火させると自宅のみならず大火災の原因にもなる。地震が起きたらまず火の始末を してから次の行動に移るようにしたい。過去の地震による火災被害の教訓から普段から考慮すべき事項と具体的対策をまとめてみた。
対策・行動 | 具体的実施事項 |
---|---|
(1)避難経路事前確認 |
■避難場所と避難ルートの確認 |
(2)建物の耐震化と家具の転倒防止対策 |
■建物の耐震化 |
(3)電気による火災防止 |
■感震ブレーカの設置 |
(4)ガスストーブ、灯油ストーブの火災防止 |
■感震自動ガス遮断ガスストーブ |
(5)熱発生器具の設置場所見直し |
■電気・ガス・石油ストーブ設置場所見直し |
(6)初期消火用消火器の設置 |
■消火器の設置 |
■ここからは仮に筆者がある地域の住宅密集地の戸建住宅に住むんで居たと想定して、実際の非難行動をシュミレーション した内容である。避難行動は住んでいる場所、建物の種類(木造住宅、鉄筋コンクリート造のマンション、鉄骨造のアパート など)、家族構成(乳児、高齢者、要介護支援者等)等によってもその方法は違う。 重要なことは少なくても家族単位で「自助」の観点から「実際を想定した自己避難訓練」を普段しておく必要があると言うことである。 もちろん地域が主催する防災訓練として定期的に避難訓練には積極的に参加する必要がある。
対策・行動 | 具体的実施事項 |
---|---|
(1)地震動から身を守る |
■地震の揺れから自分の命を守る |
(2)火の始末と家族の安全確認 |
■自宅からの失火を防止と家族安全確認ぐ |
(3)避難行動 |
●地震の揺れが今まで経験しないような大きな揺れであれば巨大地震が起きたとすぐ判断し、避難準備の準備を開始するとと共に携帯ラジオや
携帯電話等の等で地震の情報を入手する。
なお、避難する場合はすでに停電になっていてもかならず配電盤のメインブレーカーが切ってから避難する。 |
(4)地震火災での留意点 |
■避難場所や避難ルートは複数事前に確認しておく。 |
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【出典先】
①【写真24-1】~【写真24-6】:所蔵・提供:東京都立中央図書館所蔵・提供
★①は著者が東京都立中央図書館の利用承諾を得て掲載しているため無断で
転用することは出来ません。
②【図24-7】:総務省中央防災会議「1923関東大震災報告書(第1編)」のデータ
を基にグラフ化した。
③【図24-8】:神戸市提供(公開記録写真より)
③【図24-9】:一般財団法人消防防災科学センター 災害写真データ
ベース(著作権フリー)より引用
【参考文献】
・総務省中央防災会議「1923関東大震災報告書(第1編)」平成18年7月
・内閣府発行 中央防災会議資料「東南海、南海地震に関する報告」平成15年12月」
・防災士教本(平成28年7月1日第2版)
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